瓦屋禅寺縁起
寺伝曰く聖徳太子(厩戸皇子)が摂津(大阪)四天王寺建立する際に瓦を作製する為に、蘇我大臣と小野妹子に命じて良質な土を求められ、この山中の土が粘土質で瓦を作製するのに適していた。太子曰く「四神相応の霊土なり」と申され、渡来人の力を借りて瓦を10万6000枚以上作らせ、山頂へ太子が斧で一刀した十一面の千手観音像を祀り「瓦寺」を建立したのが始まりとされる。草建時には太子の勅許により太夫頼賢なるものが出家し、その子7人もこの寺へ住したとされる。
その後約300年を得て寛平3年(891)には東大寺末寺として華厳宗となり源仁僧都により伽藍を再建し「瓦屋寺」として再興された。一山僧房二十四宇、宗徒十六口を数えたと「東大寺三綱記」に記してある。
永禄11年(1568)には観音寺城の戦いにより支城であった箕作山城を織田信長率いる木下藤吉郎(豊臣秀吉)が攻め入り、その戦の兵火により罹災し惜しくも堂宇は悉く焼失しました。この時は比叡山の影響で天台宗であったとされております。辛うじて千手観音像、四天王像は焼失を免れ、その後文禄年間には荒廃していたとされ世の無常さを感じさせましたが、正保2年に八日市(現東近江市)に奥州伊達家の飛び地がある関係で松島瑞巌寺中興開山雲居希膺禅師の高弟である香山祖桂禅師が荒廃した瓦屋寺の姿を嘆き、その晩に天女(弁天)の霊夢を見られ再興を誓い、師である雲居禅師の篤志者であった福原茂右衛門を願主に彦根藩井伊家次席家老庵原朝真公より内陣法器等を備え釣鐘堂を建立し臨済宗妙心寺派の一寺として「瓦屋禅寺」として中興された。
香山禅師の生涯は宮城県三迫に生まれ吉岡天皇寺にて得度し、雲居禅師に師事し近江の地へ27歳より74歳で亡くなるまでの50年近い年月を瓦屋禅寺中興事業に御尽力された。四方より修行僧が訪れその教えは広く伝わり、疫病にご利益がある太子御作の千手観音像は流行り病に大変霊験あらたかになり全国津々浦々より参詣者が溢れたとされます。その中に越後十日町(現新潟市)にて酒屋の商いをしていた水野五右衛門の娘が天然痘に患い、嘆き祈祷を受け回復されたことから水野家の篤志により現在の本堂が延宝年間には再建されたと伝わります。
現在は平成30年4月に国登録有形文化財として本堂・庫裡・地蔵堂・開山堂・経堂・賓頭盧堂・鐘堂の7棟が指定され、江戸時代には近江西国第18番霊場にしてされ、聖徳太子霊跡第30番、近江聖徳太子霊跡の札所に指定され多くの参詣者が訪れ賑わいます。